ひゅうと、音がした。
音は筒から飛び出し、薄紫の鮮やかな煙を吐きながら空へと上っていく。
「おおっ!」
音の尻尾は見えなくなるほど高く上ると、空の真ん中で弾けた。
ぱぁんという音がして、さらさらと粉のようなものが落ちてくる。
もっとよく見たくて立ち上がると、足元の瓦が微かに動いた。
体勢を崩し、屋根にぺたりと尻餅をつく。少々痛かったが、何、どうということはない。
これほど見事に行くとは、自分でも思わなかった。
満足感がじわじわと広がっていき、自ずと顔が綻ぶ。
だが、それは一瞬でかき消えた。
「わかさむぅわぁああああああああああああああああ!!!!」
眼下には、鬼の剣幕の従者達が、一斉に走り来るのが見える。
まぁ想像はしていた。
屋根に上るな、忍小屋に入るな、中にあるものに触れるな、火薬を弄るな……
一つの行いで、いくつの約束を破ったのだろう。
だが、どうしてもやってみたかったのだ。
花火の作り方、調合の方法の書かれた紙を、手に入れてしまった以上。
「よし。」
こうなれば逃げるしかない。梯子を使えば必ず捕まる。
屋根の近くまで伸びている木を伝って降りれば、
裏手の方へ抜けることが出来よう。
立ち上がろうとして、むんずと肩を掴まれた。
「若さまぁぁぁ……」
振り返ると、黒い何かをぬらぬらと立ち上らせた忍達が数名、
頬をひくひくとさせながら立っていた。もう屋根に上ったか。流石、忍は速い。
とりあえず、えへらと笑ってみたが、
「わっ!なっ!お、降ろせ~!」
肩の上に担ぎ上げられ、あえなく御用となったのだった。
――
襖を開けると、視線が一斉に此方に集中した。
部屋の中央には、小さな主の姿。
正座させられているその周囲を、従者という従者が取り囲んでいる。
既に粗方の説教は終わったと見えて、主の背はしゅんと項垂れていた。
何も総出で説教せずとも良いのだが、主の父と兄とが遠出している今、
優しく諭し、諫めるのは、己の役目とでも思うているのだろう。
揃いも揃って、甘いにも程がある。
主はくるりと振り返った。
その下唇は微かに突き出ており、拗ねているのがよく分かる。
これだけの大人が寄って集って説教しているのに、
悪びれないのもある種大したものだ。
主は背後に現れたのが自分と解ると、寧ろ表情を輝かせすらした。
「さすけ!」
全く、反省していないらしい。
「おかえりさすけ!今戻っ……」
「ちょっと来なさい。」
猫の子のように襟首を掴み上げ、そのまま踵を返す。
「あ、あの……」
忍の一人が、おずおずと言った。
視線を向けると、自分より年長であるはずのその忍は、
何故か畏まって敬語で言った。
「その……何というか……若さまももう悔いていらっしゃると思うのですが……」
摘み上げている主を見下ろすと、主はじっと此方を見上げていた。
目があったのに気付くと、慌てて逸らし、また口を突き出している。
「………わかってない。」
すぱんと襖を閉め、廊下を歩き出す。従者達は、それ以上何も言わなかった。
――
己を「説教部屋」から連れ出した忍は、手近な空き部屋に自分を放り込むと、
すと腰を下ろした。仕方がないので、此方も正座しておく。
「何用だ……。説教ならば、もう聞き飽きたぞ……」
忍は黙って座っていた。折角数日ぶりに顔を合わせたというのに、
何も説教せずとも良いだろう、と言いたかったが、
その無表情が恐ろしく、とても口には出せなかった。
「若さま。自分のしたこと、わかってないだろ。」
忍は、低く呟いた。
「わかっている……。だから、もう花火はせぬと言うて……」
「わかってないよ。」
言葉は、ぴしゃりと遮られた。忍の表情は相変わらず「無」のままで、
顔をしかめて項垂れるほか無かった。
痺れてきた足をもぞもぞ動かすと、溜息が漏れた。
この退屈な説教はいつまで続くのだろう。もっと話したいことは山とあるのに。
そんなことを考えていると、忍が動いた。懐から、何かを取り出す。
「若さま。」
忍はそれを畳に置き、すっと此方へ押し出した。
それは、鞘に収められた短刀だった。
「さ、さすけ?」
忍はすっと姿勢を正した。微かに伏せた目が、静かに短刀を見つめている。
「さ……さすけ?その……」
「俺も、すぐに逝くから。」
言われた意味が、さっぱり分からなかった。忍は顔を上げ、しかと目が合うた。
その目は、生涯忘れようもない。黒い石のような、冷たい色をしていた。
「死んで。」
全身の血が、ぞくりと音を立てたような気がした。
言葉も、音も、表情も、全てが恐ろしく感じられて、目眩がするほどだった。
足が、腕が、歯が、かたかたと震え出す。
忍は表情を変えず、短刀を手に取った。金属の擦れる、微かな音がして、
鈍く輝くその刀身が露わになる。身体が、益々冷えていくのを感じた。
「あ……」
逃げ出したいほど恐ろしいのに、指先一つ動かない。
ただ、情けない声が漏れるのみだ。
忍の顔が、ふっと和らいだ。
いつの間にか呼吸も止めていたようだが、その顔を見て漸く微かな安堵の息が漏れた。
しかし、それも束の間だった。
「………自分じゃできない?」
刃が、自分の首元に押し当てられていた。そのまま引けば、皮など容易く引き裂くだろう。
「俺がやっても良いけど、若さまは武士の子だ。
自分のしたことには、自分で片を付けるべきだよね。……さぁ。はやく。」
「……っ!」
刃が恐ろしいのと、殺気が恐ろしいのと、自分が情けないのと、
これほど嫌われたのが哀しいのと、道連れにしたくないのと、死が恐ろしいのと。
もう何が何やら何やら解らなくなって、気付けば床に伏して蹲っていた。
「ごめ……なさ………ごめんなさ……。さす……ごめん……さぁい……。」
ただひたすらに、侘びの言葉を繰り返した。
――
短刀を置き、主に向き直る。
「火薬ってのは、怖いんだよ。
火の粉が飛んだら、城を全部焼き払ったかも知れないんだ。」
「………もう……しません……。ごめんなさい……」
主はもうこれ以上小さくなれないほど小さくなって言った。
「それだけじゃないよ。音に驚いて、屋根から落ちたかも知れないし……
暴発したら、若さま自身が死んでたかも知れない。」
主は微かに顔を上げた。大粒の雫をぼろぼろと溢し、鼻は真っ赤になっている。
「俺は……若さまを傷つける奴は絶対許さない。それが………若さまでも。」
「……。」
主は口を微かに動かした。何と言っていいのか、迷っているようだ。
「約束。覚えてるよね?」
そう問うと、主ははっと目を開き、かくかくと頷いた。
「屋根に上らない……火薬に触らない……」
指を折りながら、一つ一つ挙げていく。未だに怯えているのか、手が震えていた。
自分が怯えさせておいて申し訳ないとは思うが、思わず顔が弛みかける。
「他には?」
何とか持ち直し、顔を覗き込む。主は必死に考え込み、うんうん唸りだした。
ついに堪えきれず、ふっと笑みが零れてしまう。
「ただいま。」
言われた意味が分からなかったのか、主は目をぱちぱちと瞬かせた。
「俺も約束破っちゃ、駄目だよね。」
「……っ!」
漸く安堵したらしい主は、殆ど頭突きのように胸に顔を埋めてきた。
震える声と、熱くなった顔を目一杯擦り付けて、主は何度も「すまぬ」を繰り返す。
胸にはたはたと雫が零れるのを感じて、その背にそっと、掌を載せた。
――
とん、とんと、一定の間隔で、忍の手が、背を軽く叩いていく。
その手が、先程短刀を突きつけたものと同じとは、到底思えなかった。
「もう、落ち着いた?」
忍の声がした。小さく首を振り、再び顔を埋める。
忍は苦笑しながらも、背を優しく叩き続けた。
「帰って来るなり花火騒ぎとは……少しは俺様を休ませてよね。
花火の作り方なんて、どこで覚えたの。」
「忍隊の者等に見せてもらったのだ……。
その時一枚だけ忘れていったので……それを……」
「アイツ等……」
忍は頬を引き攣らせ、眉間に皺を寄せた。
怒っているようだが、自分に対してではないらしい。
「若さまも若さまだよ。なんでそんなもの作っちゃうんだよ。」
まぁ、あの図面だけで作れるのは正直大したものだと思うけど、と忍は付け加えた。
「………見えるかと思うたのだ。」
「見える?」
「そろそろ……帰ってくる頃だと………聞いたのだ。
だから……出来るだけ……遠くからでも……見えるようにと……」
背を叩く感触と、耳に響く鼓動と、包まれている暖かさと。
泣き疲れた子どもが、その心地よさに勝てようはずもなく、瞼が重くなる。
「早う……帰ろうと……思う……ように……」
意識がくらくらと遠くなり、すうと眠りに落ちていく。
完全に落ちてしまうほんの少し前、
困ったような声が、聞こえた気がした。
「まったく、困ったお人だよ………」
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